梅若会演能会
組み合わせの妙が冴えた「菊慈童」と「卒都婆小町」(梅若会演能会2008)。10月11日の福岡市、大濠公園能楽堂は無常感に包まれていたのではなかろうか。
永らく若さを保って生きることは本当に幸せなのか、老醜をさらすかつての美女は、はたして真に醜いのか。人間の欲を見せつけながらも諦観に通じる能の本質に迫る演目二つ、見応えがあった。
当代きっての「色」を感じさせる梅若六郎だが、「菊慈童」不老不死を寿ぐ七百歳の童の面と一体化して若さがにじみ、常とは異なり愛らしくさえ感じる。足運び、身のこなしは軽く、永遠の若さを賛美して舞う楽の調子は、囃子と合っているようで合い過ぎず、定型の中に在る自由律を我がものにする様に、天才といわれるゆえんを見た気がした。舞楽は、素直に喜怒哀楽を感じさせてこそ余韻が残ることを熟知しているのか、幼ささえ伴いそうな舞に魅了されながらも慈童の生きた年月の重みが身にしみる。
才色兼備の小野小町のなれの果て、という凄みのある題材で異色の能「卒都婆小町」。
女乞食になろうとも、僧を論破する前シテ、百夜通いがかなわなかった深草少将に取り憑かれている後シテ、共に人間臭く魅力的だ。
長年、九州の梅若流を支えてきた鷹尾祥史は、抑制の効いた型を堅持しつつ、品格のある誇り高い舞を見せた。小町の霊を安んじ、祈りにも通じるほどだった。
老女の面は余程の作であろうか、怖いほどに眼力を感じさせ、演者の気迫と相まって女の情念を映している。
人が生き、そして死するを考えずにはいられない秀逸の演能、菊の香に囲まれて菊の名の付くお酒でも酌み交わし、人生を語るとしましょうか。
築城則子・染織家
2008年10月24日
朝日新聞夕刊 掲載