観世座

 「能を観る」それを改めて考える機会を得たような舞台だった。4月25日、アクロス福岡シンフォニーホールでの能楽観世座「船弁慶」
 舞台正面には藤の花が絡まる老松の生花、低めの橋懸かりはあるものの鏡板も四本柱も無い。当然のことながら屋根も無い。天井が非常に高く、両脇には赤いドレープ状の布が下がっている。
 そのような空間では何ともバランスが悪く居心地がよくない。演者の姿が小さく見えて心もとない印象を受ける。能を鑑賞する時いつも伝わる緊張感、舞台との一体感が希薄だ。
 能は元来、野外でも演じられてきたし、借景を利用して自然のダイナミズムをも取り込んだ大胆で奔放な要素も合わせ持っている。笹などを柱に見立てて四隅に配し、目に見えずとも存在する能舞台の空間を私たち観る者へ想起させる。それこそが醍醐味だ。
 世阿弥の流れをくむ「観世流」の当代宗家、観世清和の舞は品格を漂わせ、前シテの静御前と後シテの平知盛の霊、静と動の対比は鮮明かつ情感豊かだ。装束を着けた立ち姿の美しさが際立ち、朗々たる謡に耳を澄ます。目付柱も無いのに面をつけて演じにくいのではと推察したが、そんな事は微塵も感じさせない安定感に満ちた舞であった。
 親子共演ともなった義経を演じる三郎太(8歳)は間合いの取り方もよく、幼さを感じさせない落ち着きは今後を期待させる。
 囃子方の音は冴え、演者も完成度の高い舞をする、なのに濃密な空気を実感できないのは何故。染織の世界でも同様だが、着物という限定された型だからこそ表現できる美がある。空間と音と舞、日本固有の芸術ならばこその様式美を欲したのかもしれない。

築城則子・染織家
2008年5月2日
朝日新聞夕刊 掲載