羽衣「金春安明」

 8月5日、福岡、大濠能楽堂の「羽衣」はワキ(舘田善博)とワキツレによる朗々たる謡から始まった。ワキが三保の松原に着くまでの道行きをも含めた構成で、まれにしか観られず興味深いものだ。下掛宝生流の舘田善博の安定感ある謡は、観る者を舞台へと誘うに十分で、天女の登場を心待ちにさせる。
 朱の縫箔の装束、髪に結んだ鬘帯も美しく、品格のある装いで天女(金春安高)が現れる。 
 しばし引き込まれていながらも気づくことがあった。表情が動くのだ、物語と共に、囃子方の音色と共に。こんな面に出会ったことがあっただろうか。天女の命とも言うべき羽衣を人間にとられた時の哀しみ、返してくれと訴える切なさ、戻ってきた羽衣を身にまとい舞う時の晴れ晴れとした歓喜、正面から横から、お顔がその時々に変わる。
 だが、演者はどうだろう。ずっと静かだ。身体は揺れず、しかも足運びはさらに静だ。謡の声も抑え気味で、時折の歓びの高音にハッとさせられる。シテ五流の中で最も古い金春流らしく奇をてらうことはない。
 抑制とはなにか。私たち、工芸の世界でも常に問われることだ。表現の自由を求めるあまり見失いがちな、自身への回帰、逡巡、錯綜する思いを超えた時に見いだす境地。八十世金春流宗家、金春安高は一時間半程の凝縮した舞台で、華麗さを控え、抑制の先にこそ在る芸の真髄を示してくれた。
 公演後、面が江戸時代初期の友閑作で金春宗家の大切な面だと知った。そして先代の著書に「動かぬ故に能という」があることも。静と動、共に伝え継がれてきた証だろうか。
 「伝統」、守るには膨大で、攻めるには壮大、だが八十世継承記念の大濠でのこの舞台、「秘すれば花」の精神に久々に接し、めぐりあえたひと時に感謝したくなった。

築城則子・染織家
2007年8月31日
朝日新聞夕刊 掲載